aiko歌詞考察④-『花火』の"そろったつま先"とは何なのか-
aikoの花火という曲がある。
デビュー後3曲目にして、aikoの存在を各所に知らしめた名曲だ。歌ラップのような、テンポを取りながら長文を一息で歌う部分が数か所あり、1分当たりの文字数がaiko史上最も多い(私感)。
私は
もやのかかった影のある形ないものに全て
という部分が好きだ。ここが一番フレーズとテンポの相性がよく、口ずさんだときの気持ち良さがピカイチである。
それはさておき。
『花火』と私の付き合いは長く、中学3年の時からなので、かれこれ15年になる。もう何十回も聞いているのだが、唯一不可解な箇所があり、それが
そろったつま先 くずれた砂山 かじったリンゴの跡に 残るものは思い出のかけら
という部分。
『そろったつま先』『くずれた砂山』『かじったりんごの跡』が、"あなた"との思い出のかけらであると語っている。単語をポンポンポンと並べて語調を整えるという手法はaikoがよく使うもので、例えばキラキラという曲の
羽が生えたことも 深爪したことも シルバーリングが黒くなったこと
などが挙げられる。
しかしながら、aikoっぽさというのはただ単語を3つ並べることではない。3つ並べた単語の1つ目に敢えておかしなものを選び、シコリを残すところにある。
普通、狙って演出する場合、違和感は3つ目に持ってくるものだ。
例えばこう。
息子「今日起きてから、顔洗ってー」
父親「うん」
息子「歯磨きしてー」
父親「うん」
息子「うんこ漏らした」
父親「え!うんこ漏らしたの!?」
突然のうんこ漏らし報告に思わずツッコミを入れてしまう。これが自然な流れだ。
aikoのように一つ目にこれを持ってくると、
息子「今日起きてからうんこ漏らしてー」
父親「うん」
息子「顔洗ってー」
父親「うん」
息子「歯磨きしたのー」
父親「そうかそうか」
息子「お父さんはー?」
父親「お父さんはねぇ...」
息子「うん」
父親「...」
息子「...」
父親「え!うんこ漏らしたの!?」
こうなる。
このように、〇〇して次に◻︎◻︎して...という報告を受ける際、〇〇の語尾からそのあとに□□が続くと予測される場合、聞き手の興味はすでに◻︎◻︎が何であるかということに移っているため、〇〇を吟味することなく受け入れてしまう傾向にある。
『花火』および『キラキラ』には、あえて一つ目におかしなフレーズを持ってきて聞き手に無条件で受け入れさせ、違和感を残して印象付ける手法が用いられているのだ。
さて、そろそろ本題に入る。
『そろったつま先』についてである。
『羽が生えた』という異常極まりない報告もすんなり受け入れてしまう我々であるので、『そろったつま先』というそれ自体はなんてことないフレーズは審査なしで通過させる。
しかし、『そろったつま先』『くずれた砂山』『かじったリンゴの跡』という並びで見た場合、後ろ二つからは"不完全"もしくは"一度出来上がった形が崩れた状態"という印象を受けるが、『そろったつま先』からは逆に、完全で崩れたところがないという印象を受ける。
なぜ『そろわぬつま先』まではなく、『そろったつま先』なのか。長年の謎である。
このまま放置していたら、今後も『花火』を聴くたびに気になってしまいそうなので、この際、強引にでも解決しておこうと思う。
勢いで押し切るので、ついてきてほしい。
1.『そろったつま先』は、"完全な状態"ではなく、『くずれた砂山』『かじったリンゴの跡』と同様に"不完全な状態"を象徴している
2.つま先が揃うのは、立ち止まっているとき
3.この曲に登場する二羽の天使は「疲れてるんならやめれば?」「一度や二度は転んでみれば?」と交互に語りかけて"あたし"を困惑させている
以上のことから、かつては"あなた"との関係が良好で前を向いて歩けていたが、 "あなた"との関係が良好でない今では、"あたし"は立ち止まり、下を向いて揃ったつま先を見つめていることが多い。そして揃ったつま先を見るたびに「あぁ、あの頃はちゃんと歩けてたのにな」と、"あなた"との日々を思い出すのだ。
...ということでどうだろう。
この解釈が正しいかどうかは分からないが、私はすっきりしたのでこれで良しとしようと思う。
以上。
『建国記念の日』から考える、『“の“』の汎用性について
2月11日は建国記念の日です。
元日、成人の日に続く3番目の祝日ですが、悲しいかな、2017年は土曜日と相殺されてしまっています。社会人にとって、祝日が土曜日と重なるほど辛いことはありません。しかしそうかといって、その字面からは海の日や体育の日とは一線を画す、日本という国家にとって重大な日であることが察されるので、「毎年月曜日にしてよ!」というのは野暮でしょう。
ところで、なぜ『建国記念日』ではなく『建国記念の日』なのでしょうか。
海の日や体育の日とは一線を画すはずなのに、間に"の"が挟まることによって幼稚な印象を与えてしまいます。憲法記念日という祝日があるので、「すべての祝日には"の"を挟むべし」という決まりがあるわけではなさそうです。
とりあえず、困ったときはWikipedia氏に聞いてみましょう。曰く、
名称に「の」を挿入した「建国記念の日」として“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるようにし(略)
だそう。前後の文脈を含めて簡単に言うと、建国を記念する日を決めるというのは国の成り立ちに関する極めて政治的な事柄であるため、国会でも政党間で意見の対立が生じて紛糾を極めた中、その調整策として「てかいつ建国されたとか別にどうでもいいじゃん。日本が建国されたこと自体を祝う日にしようぜ」という体を成すために発案された『"の"』だそうです。『建国記念の日』の『"の"』は政党間の緩衝材として採用された、という経緯があるようですね。
※ただし、2月11日というのは「んーじゃあ今日にしよっか」的なゆるふわに決められた日ではなく、戦前の『紀元節』を踏襲しています。紀元節とは、初代天皇とされる神武天皇の即位日、つまり日本という国家が誕生したとされる日のことで、これが旧暦の1月1日、新暦(西暦)の2月11日なのです。
ところで。Wikipedia氏の解説を読んでイマイチ納得できなかったのが、『"の"』っていうほど物事を曖昧にする効力あるか?ということ。
一応、建国記念の日を国民の祝日に定めた側の言い分は
建国記念日⇒国ができた日を記念する日
建国記念の日⇒国ができたことを記念する日
のようで、『"の"』の一文字で 日→こと に変えましたということらしい。
しかし私はどうしてもこう思ってしまいます。
いやいやうそだろ。『"の"』にそんな力ないでしょ、と。
少なくとも、31年生きてきた私のリテラシーではまだこの境地にたどり着けていません。もう30年生きればたどり着けるのでしょうか。それとも、15年前からやり直せばよいのでしょうか。わかりません。
しかし。この手法自体はなかなか興味深く、これを取り入れることで各種記念日についても解釈の幅が広がりそうです。ここはひとつ、素直に受け入れて、いろいろ試してみましょう。
例えば、結婚記念日だとこうなります。
結婚記念日⇒結婚した日を記念する日
結婚記念の日⇒結婚したことを記念する日
あれ、なんか良くないですかこれ。結婚記念日だと日付に囚われている感がありますが、結婚記念の日だと日付に関係なく本来記念すべきことが記念できているような気がします。しかも、結婚記念の日なら年に何回やってもいいんですよ、日付関係ないから。月一で「今月の結婚記念の日は20日にしよう」とか言って二人で美味しいものを食べてもいいんです。その際に結婚したときのことを思い出して、近頃の日々を反省したり、互いに感謝し合ったりしたらいいんです。
…あー、良いですね。これはなんか良さそうです。新発見かもしれません。
もうひとついってみましょうか。
例えば、誕生日ではどうでしょう。
誕生日⇒誕生した日(を記念する)日
誕生の日⇒誕生したこと(を記念する)日
誕生日はやはり日付に囚われてる感ありますね。お祝いをしてくれる人たちは、誕生した日を祝ってくれているのではなく、誕生したことを祝ってくれているわけで、やはりこれも誕生日より誕生の日の方がしっくりきます。私は、いわゆる誕生日を『産んでくれた母親に感謝する日』と捉えており、それでいくと誕生の日はこの考え方によりマッチします。今日が誕生の日だということにして、母親に感謝の電話をしてみたらどうでしょう。
私「あ、もしもし、おかん?」
母「なに、あんたが電話してくるなんて珍しいね」
私「いや、今日俺の誕生の日だからさ」
母「誕生の日?誕生日じゃなくて?」
私「そう。今日俺の誕生の日だからさ、ちょっと一言言おうかなと思って」
母「なに、一言って」
私「あのさ…産んでくれて、ありがとな」
母「…」
私「…」
母「…あの」
私「なに?」
母「おまえ大丈夫か?ちゃんとご飯たべてるんか?」
たぶんこうなるので、過剰な使用は控えましょう。
以上です。
スマホひとつでできる最強の眠気対策3選
眠いのにどうしても起きとかないといけないとき、ありますよね。
もちろん眠いときには寝るのが一番なんですけど、この現代社会において眠いときに好きなだけ寝られるのなんて、一握りの金持ちか、さもなければ猫くらいのものです。私は猫でも、ましてや一握りの金持ちでもないので、好きなときに好きなだけ寝ることは許されません。
「そんなの前日にしっかり寝ればいいじゃない」という意見はその通り、ごもっともなんですが、ヒトという生物はいまだ自身の身体のバイオリズムを完璧にコントロールする術を有していないので、前日にしっかり寝たとしても、眠いときは眠いのです。これはもう進化を待つほかありません。
とはいえ、我々が進化を待っている間にも、眠いのに寝られない状況というのは日々襲いかかってくるわけで、こいつから逃れることはもはや不可能です。となると、打開策を打ち出すしかないでしょう。富豪と猫を除いた全人類の期待を背負って、私が『眠いのに寝られない状況』を打ち負かす策を考えます(徹夜で)。
まず、眠いのに寝られないという状況を挙げていきましょう。
・偉い人が集まる会議に出席したとき
・車を運転してて渋滞にはまったとき
・講演会とかで最前列に座っちゃったとき
・約束の時間までに現地に着かなければいけないとき
・異性とのデートのとき(二回目以降)
などでしょうか。要は、寝ると自分が盛大に損をするか、寝ると誰かに多大な迷惑をかけるかのいずれか(あるいは両方)のときに、眠くても寝られないという状態になりそうです。
由々しいですね。早急に解決策を示す必要があります。
こんなのはどうでしょう。
1.びっくりする
学校の授業中ウトウトしてるとき、寝落ちする瞬間、ビクッとなった拍子に机を思いっきり蹴り上げてガタガタガシャァァ!!!ってなったことありません?
(ないですか。そうですか。例が悪かったらすいません)
私はこのとき何が起こったのかわからず、必死に理解しようとして頭をフル稼働させたので完全に目が覚めました。そして大音量を発したのが自分だとわかり、あまりの恥ずかしさで眠いどころではなくなりました。
びっくりして眠気を飛ばすこと。これはかなりの効果があります。
【具体策】
眠いのに寝られない状況が想定されたら、すぐさま自分をびっくりさせる準備をしましょう。まず、スマホのアラームアプリを開き、目を瞑ります(この間に寝てしまわないよう気を引き締めて臨んでください)。そして、アラームの"分"のところを少しだけ回します。するとどうでしょう、数分後のいつかのタイミングで突然アラームが鳴り出し、あなたは間違いなくビクッとなり、そしてガタガタガッシァァァーーンとなります。そして眠気が吹っ飛びます。いかが?
2.怯える
これも学生時代のエピソードですが、週刊少年ジャンプで当時連載していた『I''s(アイズ)』というヤング色の強い漫画があって、あれの8巻をうっかり自分の机の中に入れてしまってたんですよ。その席に座ってるのが自分だったら何の問題もないんですけど、移動教室という名の、選択科目によってその授業時間中だけクラスの半分が入れ替わる制度があり、そのとき私の席には女子が座ってたんです。I"sの8巻といえばとりわけヤング色の強い絵が描かれた表紙でして、まぁ別に少年ジャンプで連載してる程度なのでそれまでっちゃそれまでなんですが、純朴の極みだった私は、あれがもしその女子の目に触れて「あいつは学校にやばいものを持ってきてる」という噂を広められた日には登校拒否も辞さない覚悟をするほど、怯えながらその時間を過ごしていました。結局、他人の机を漁らない良心的な生徒に座られていて事なきを得たのですが、プール後の苦手な世界史の授業にも関わらず、一切眠気を感じることがありませんでした(もちろん授業は一切頭に入っていませんが)。
【具体策】
眠いのに寝られない状況が想定されたら、まずケータイにアニメ声でアラーム通知してくれるアプリを入れましょう。「ねぇ起きてよ〜起きてくれないとプンプンしちゃうぞ〜!」とかの出来るだけヤバいやつがオススメです。そして会議なりが終わる時間よりちょっと遅い時間をセットします。これにより、思う存分怯えることができ、眠気を追いやることができるでしょう(もちろん会議の内容は頭に入ってきませんが)。会議終了後は、アラームを解除することを忘れないでください。さもなければ「あいつ会社でなんか怪しいアプリ使ってた」という、根も葉もある光合成して酸素すら出しかねない高濃度の噂が広まってしまいます。お取扱いには十分お気をつけを。
3.ドキドキする
あれは中学二年のときですかね、音楽室への移動のとき、一緒に行動している友達がトイレに行くと言って離れた隙にクラスの女子が寄ってきて、「音楽終わったら西棟の階段に来て」とだけ言い残して足早に去って行くということがありました。こんなのドキドキもドキドキです。さして話したこともない人だったので、音楽の後に西棟の階段で何が行われるのか特定できない。例の告白のパターンが濃厚ですが、何せ彼女の人となりを知らないのでどう対応すべきか分からないのです。もしかすると話しかけてきた彼女ではなく、その友達に告白されるかも知れませんし、行ってみたら上級生が待っていてボコボコにされた挙句『I"s』の新刊まで取られてしまうかも知れません。何が起こるか分からないドキドキで、その授業中は全く眠くありませんでした。
そうこうしている内に音楽の授業が終わり、ドキドキMAXの私は、しかしそれを悟られないよう何気ない感じで西棟の階段に向かいました。そこには、私に話しかけてきた女子ともう一人、その友達らしき人がいました。このパターンは想定済みだったので、渾身のクールを装い「なんか用?」とバッチリ決めたのですが、なんとその生徒は音楽室への移動の際にトイレに行った私の友達のS君を好いており、昼休みに改めて彼をここに連れてきてほしいという願いを聞かせるために、わざわざ自身の友達を介して私を呼び寄せたのでした。あまりの手の混みように度肝を抜かれるとともに「ていうか俺が挟まる必要なくね?」とツッコミたくなりましたが、そこはぐっと堪えて、与えられた役割をこなすことにしました。
上記はあくまで眠気対策の提案に関して紹介したエピソードであるため、その後その生徒とS君がどうなったとかはもはや蛇足なので語りませんが(というかすでにやばいほどの蛇足)、ドキドキすることで一切の眠気を寄せ付けなかったという事実は正確にお伝えしておきます。
【具体策】
会議等の間、ずっとドキドキしておきましょう。例えば、会議の前におもむろにスマホを取り出し、ちょっと良いなと思っている異性に「今晩食事でもどうですか?あ、このあと会議なので返事は後ほど」というような電話をしてから会議に臨むとか。
私が提案する眠気対策は以上の3つです。
「なんだ結局学生時代の話したいだけじゃねぇか」という意見がありそうですが、7割くらいその気持ちがありましたすいません。でもまぁ、学生時代はそれ自体がもう眠さのかたまりですよね。私なんて生物と英語以外全部眠気との格闘でしたし。学生時代のエピソードから眠気対策案を見つけることは的外れではないかも知れません。
というわけで、本日はもう寝ます。
眠気対策は必要ですが、寝られるときに寝ておきましょう。
おはなのど飴に見る、ハリネズミの大躍進について
当ブログでは、過去にハリネズミを題材にした記事を何本か作成しております。
例:
もともとハリネズミを飼っているわけでも、「ハリネズミの針に刺されて死ぬなら本望だ」などと思っていたわけでもありませんし、現在もそこまでは思っていません。
ただ、ハリネズミって生物としてかなり興味深いんですよ。『背中が針』というおもしろフォルムも然ることながら、実は『もぐらの仲間』というツッコミの余地を残している点や、意外と可愛く手のひらに乗せたときのサイズ感もおてごろであるというネタが尽きない生物です。
上記の記事で、ハリネズミを『認知度がイマイチ低い生物』というニュアンスで紹介しましたが、先日、最寄りのコンビニにてその事実が覆るのではないかというものを発見しました。
これです。
サクマ製菓株式会社が製造している『おはなのど飴 』という商品で、ミルクの甘味とミントの爽快感を同時に得られるアメちゃんですが、そのパッケージには子犬や子猫、子豚といった愛らしさの権化たる生物が印刷されており、のど、はな、そしてこころをも潤してくれるという大変画期的なものです。私はこの商品の存在を知ってからというもの、毎日ひと袋消費する勢いで舐めに舐めているわけですが、先日、先の画像のものを発見しました。
子犬、子猫、子豚に混じって子ハリネズミがそのパッケージを飾っているのです。
すごくないですか?これ。
イヌ、ネコ、ブタは生後割と早い段階に出会います。人類の歴史から見ても、この三種は何千年も前からヒトに寄り添い、ヒトと共に繁栄してきました。
そこに。ヒトに寄り添う生物のベスト3ともいうべきそのラインナップに、突如ハリネズミが登場するのです。
ハリネズミに、上記三種に劣らない人気、認知度、可愛らしさがあると見込み、パッケージに放り込んだサクマ製菓の大英断。なかなかできるものではありません。
私は、ハリネズミについて都市伝説に近い感覚で考えていましたが、実は知らぬ間に結構身近な存在になっているのかも知れません。
ハリネズミをもっと布教するために、今後はこのパッケージのおはなのど飴を舐めまくろうと思います。
冬にだって冷やし中華食べたいでしょ?そうでしょ?
先日、強烈に「冷やし中華が食べたい」と思ったので着の身着のままスーパーに走ったのですが、ただ一つの影も残すことなく商品棚から消え去ってしまっていました。夏には『冷やし中華ならざるもの麺類に非ず』くらいの感じで幅を利かせていたあの冷やし中華が、です。「オーソドックスなゴマだれくらいはあるだろう」と楽観的に考えていたので、この予想外の現状を目の当たりにして膝から崩れ落ちました。30分後には冷やし中華を啜っているものだと思っていたので、それが叶わないと知って頭が真っ白になり、2秒間意識を失ったほどです。
店員さんに、本当に冷やし中華はないのか、店頭にないだけで実はパントリーに隠し持っているのではないか、と詰め寄ったのですが、「申し訳ありません。いまは取り扱っておりません」という取りつく島もない返答。言葉こそ丁寧でしたが、その表情には「冬に冷やし中華があるわけないだろ。半年後に出直してこいや」という"常識で考えろ"感が強く出ていました。
冷やし中華は夏のもの。冬に食べるのは非常識。
本当にそうでしょうか。
その日の乾麺売り場は、半分がうどんや焼きそばといった袋に入ったチルドタイプのもので、もう半分はラーメンが占めていました。前者は年間を通して大体同じようなシェアですが、後者は夏に勢力を削がれこそすれ、売り場から無くなることはありません。
なのになぜ、冷やし中華は完全撤退にまで追い込まれるのでしょう。
これはひとえに、『冷やし中華』というネーミング、もっと言えば、『冷やし』の部分に元凶があるのではないかと思います。
かつて、室温を自在に操ることが不可能だった時代。うだるほど暑い日に、氷水でシメた麺、その上の乗った冷えたきゅうり、さらにトマトやハム、錦糸卵といった彩り豊かで食欲をそそる冷たい食べ物が出されると、誰もが我先にと食らいついていたことは容易に想像できます。夏のマストアイテムだったことでしょう。別にただの冷たい中華麺でもよかったのですが、当時の人々はこの食べ物から最大の涼感を引き出すために『冷やし中華』と名付けました。
ですが、いまや盛夏だろうが真冬だろうが、ボタンが押せる程度の指の力を有する者であれば、子供からおじいちゃんまで、室温は意のまま。変幻自在です。
冷やし中華が店頭に爆並びする夏の日でさえも、それを口にするのは適度に冷やされた室内でのことでしょう。21世紀の現代において、冷やし中華が過剰に冷感を出す意味はもはやなく、ともすれば、その『冷やし』の部分が障害になってさえいます。
夏でも涼しく、冬でも暖かく過ごせるようになった現代。『冷やし』の風評被害に惑わされることなく、真冬でも美味しい冷やし中華を食べたいものです。
鹿を『か』と読むことの安定感について
訓読みを途中でぶち切って読むことがあります。例えば、『鹿』。
訓読みは『しか』ですが、同時に『か』とも読む。
『鹿』の訓は『し』と『か』の二文字で構成されていますが、なぜ『し』ではなく『か』なのか。
これを解明したいと思います。
私は動物が好きなので、動物の名前で考えることにします。
何事も興味があることに結びつけるのが肝要ですので。
まずは『馬』。訓読みは『うま』。『う』と『ま』の組み合わせですが、『馬』の読みは『う』ではなく『ま』です。
どんどんいきます。『兎』の訓読みは『うさぎ』であり、そして『う』でもある。
『猪』は『いのしし』と『い』。
続いては…えーとすいません、もう思いつきません。訓読みを途中でぶち切られる動物はこれくらいかも。題材を誤った感があるけど、仕方ない。少ないサンプルで考察します。
一旦整理すると、
鹿:しか⇒か
馬:うま⇒ま
兎:うさぎ⇒う
猪:いのしし⇒い
なんとなく、
二文字の場合は後ろの文字を取る
二文字以上の場合は先頭の文字を取る
という風に見えます。
しかし。
こんな理屈をこねなくても、『鹿』という字を『か』と読むことを知らない人に
「『鹿』は『しか』以外になんと読むでしょう。『し』でしょうか?『か』でしょうか?」と聞くと、かなりの確率で『か』と答えるんじゃないかな、と思えてきました。
『馬』についても『兎』についても、感覚的に正しい読みを答えそうな気がします。
なぜか。
それはおそらく、『し』より『か』の方が鹿っぽいから。
もう少し丁寧に言うと、鹿という生物のアイデンティティは『し』より『か』により多く存在するという感覚を日本人が共有しているからだと思われます。
「頭に『し』がつく動物を答えてください」というのと、「お尻に『か』がつく動物を答えてください」というのでは、後者の方がより早く『鹿』が出てきそうな気がします。
【結論】
『鹿』を『し』ではなく『か』と読む理由は、『か』の方がより鹿っぽいからである
仕組みがわかったので、応用してみましょう。
先に挙げた4種類の動物以外に、新しい訓を与えてみます。
Q&A形式で行きます。
Question
1.『犬』(いぬ)は『い』か『ぬ』か
2.『猫』(ねこ)は『ね』か『こ』か
3.『牛』(うし)は『う』か『し』か
4.『猿』(さる)は『さ』か『る』か
5.『象』(ぞう)は『ぞ』か『う』か
6.『羊』(ひつじ)は『ひ』か『つ』か『じ』
7.『烏』(からす)は『か』か『ら』か『す』か
8.『鯱』(しゃち)は『しゃ』か『ち』か
9.『蛸』(たこ)は『た』か『こ』か
10.『鮪』(まぐろ)は『ま』か『ぐ』か『ろ』か
Answer
1.『犬』(いぬ)は『ぬ』
2.『猫』(ねこ)は『ね』
3.『牛』(うし)は『う』
4.『猿』(さる)は『さ』
5.『象』(ぞう)は『ぞ』
6.『羊』(ひつじ)は『つ』
7.『烏』(からす)は『す』
8.『鯱』(しゃち)は『しゃ』
9.『蛸』(たこ)は『た』
10.『鮪』(まぐろ)は『ろ』
この中でまず注目すべきは、『犬』。なんとなく頭の字を取っていきたいところですが、『犬』の場合は、断然『ぬ』でしょう。『い』より『ぬ』の方が犬っぽさがあります。(しっぽの巻き具合とか)。『犬塚さん』で考えてみてもいいかもしれません。もし『いぬづかさん』ではない場合、『いづかさん』より『ぬづかさん』の方がなんとなくしっくり来そうです。
次に物議をかもしそうなのが『羊』。私は『ひ』でも『じ』でもなく、真ん中の『つ』に羊のアイデンティティを感じました。『羊谷さん』が『ひつじだにさん』でなければ、『ひだにさん』、『じだにさん』ではなく、『つだにさん』と呼ぶと思います。
『鯱ヶ丘さん』や『鮪之内さん』についても言及したいところですが、これはまた別の機会に。
「これがあの」というつぶやきについての考察
聞いたことがあるけど見たことはなくて、それを見ようという意思を持って臨んだのではなく、偶然それに出くわしたときに発する「あぁ、これがあの」というつぶやき。略して"これあの"。
"これあの"を発見する機会は実は多くて、私の場合、10日に1つくらいの頻度で起こります。
例えば人。
過去に誰かから「〇〇のマスターが入れるコーヒーは美味しい」と聞いたことがあり、旅先で何気なく入った喫茶店のコーヒーが凄く美味しかったとき、「あぁそうか!ここがあの〇〇で、さっきコーヒーを運んでくれた人がマスターか!」と気づく。
"これあの"が発動すると、初めて会ったのになぜか懐かしく嬉しい気持ちになります。なぜこんな気持ちになるかと言うと、ひとつは断片的だった物事が一本道で繋がる爽快感、ひとつは新たな知識を得たことによる知識欲の充足、そしてもうひとつは、〇〇のコーヒーが美味しいと聞いてから、私がそのことを忘れている間もずっと、マスターは美味しいコーヒーを淹れ続けてたんだなと想像できるから、ではないでしょうか。
私は、特に三つ目の要素が大きいように感じます。
すなわち、マスターについての思い出の起点が、『初めて〇〇に来たとき』(B地点)よりずっと前の『〇〇のマスターの話を聞いていたとき』(A地点)であることで、A地点とB地点の間の出来事も(あくまで想像のものですが)思い出として認識されるため、"これあの"が親近感を誘発するのだと思います。
日常に潜む"これあの"。意識してみたら結構たくさんあるので、"これあの"を見つけることによって、日常の中の一瞬が非日常に変わるかも知れません。
番犬の防御力に物足りなさを感じているあなたへ
番犬、という存在がいます。訪問者を威嚇したり、家人に来訪を告げる役が与えられたイヌのことですが、私は「イヌでは弱い」と常々思っています。我が家にも獰猛度の高い中型犬がおり、彼女は訪問者に吠えるには吠えるのですが、ひとたびジャーキーなどを与えられようものなら、即座に尻尾を振ってヘッヘヘッヘと愛想を振りまく始末。
いつなんどき不審者が現れるか分からない現代社会において、「うちはイヌが番してるから大丈夫」と安心していると、すぐに付け込まれ、大切なものを奪われてしまいかねません。
そこで今回は、番犬の防御力に物足りなさを感じていらっしゃる方のために、イヌよりも家の番に適した動物を厳選して紹介します。
1.タスマニアデビル
もうこれは名前のインパクトがすごい。玄関の『猛犬注意』のステッカーをいますぐ剥がして『タスマニアデビル注意』にするだけで効果てきめんです。
タスマニア、というのはオーストラリア大陸の南にある島の名前で、そこに生息するデビルのような生物、という意味でこの名前が付けられたそうです。さらっと「デビルのような生物」と書きましたが、全身真っ黒な体毛の中、胸の位置にだけ一本の筋のように白い毛を生やした姿は悪魔を彷彿とさせます。Wikipediaには
家禽や家畜を襲う害獣として、また鳴き声や死体を漁る姿を悪魔に例えて忌避した。
とありますが、例えば、これがシーズーのような見た目ならば、甲高い鳴き声を発しながら死体を漁っていたとしても、『デビル』と名付けることはなかったと思います。やはり見た目のデビルさが人々に恐れを抱かせたのでしょう。
By No Dust
ちなみに、このタスマニアデビルはここ十数年間で約半数の個体が死滅しており、現在、絶滅の危機に瀕しています。ある病気が原因なのですが、それというのが『デビル顔面腫瘍性疾患』。ブラックジャックに出てきそうな病名です。もちろん、デビルの顔面に腫瘍ができる疾患、という意味ですが、私ははじめ『デビル顔面』だと思い、「それはいかにも悪魔的だな」などと一人で納得していました。とはいえ、画像検索していただければわかりますが、完全に閲覧注意案件です。平時でも悪魔を彷彿とさせるのに、『デビル顔面』になったタスマニアデビルの姿は、完全に悪魔のそれです。
ここまでくるともはや番犬の域を超えており、せっかくお急ぎ便で注文した品を届けに来てくれた宅配便の兄ちゃんも、断末魔に限りなく近い叫び声を残して逃げ帰ることでしょう。
2.マーコール
あまり馴染みがない名前ですね。もし玄関に『マーコール注意』と書いてあると、「マーコール…?なんだマーコールって…」と思い、その家への侵入をためらうはずです。
マーコールはヤギの一種ですが、体長は大きいものでなんと2m弱もあり、ヤギの中ではかなりでかい部類に入ります。
この大きさだけでも十分イヌよりも良い仕事をしそうですが、マーコールの真髄は、立ち姿の『神々しさ』にあります。巻き巻きの角とスカーフのような首周りの豊富な毛並み、やや黒みがかった体毛は、神の使いと言われればそのまま信じてしまいそうです。そしてなにより、人間の言葉をしゃべりそうな感がものすごく強い。「マーコール?知らねぇけど関係ねぇや」と言って侵入してきた不審者に、「汝の欲すもの、それ則ち汝の心に或る也」などとそれらしいことを言って改心させそうな雰囲気です。
以上、2つ候補を挙げてみましたが、どちらが番アニマルに向いているでしょう。
個人的には、タスマニアデビル(デビル顔面ver)に番犬の仕事をさせると有能すぎて手に余るので、候補に挙げておいてなんですが、あまりおすすめできません。それに、平時は可愛いんですよね、こいつ。平時の姿はよちよち歩きの子熊を彷彿とさせます。もしこいつが出てきても、「おいおいなんだ可愛いな」などと言って渡したビーフジャーキーに食らいつかせていている間に、易々と侵入されてしまいそうです。
対してマーコールは、全身から異世界感を放っており、玄関にただ立っているだけで「こいつは只者ではない…」と思わせることが可能です。
というわけで、番犬の仕事にふさわしいのは、タスマニアデビルよりマーコールです。
以上、宜しくお願いします。
aiko歌詞考察③ -『アスパラ』の”あたし”は、数いる”あたし”の中でも群を抜いて奥ゆかしい-
aikoの『アスパラ』という曲がある。
『初恋』というシングルのカップリング曲であるが、物語性の高い楽曲であり、学校という舞台で『自分』『好きな相手』『好きな相手の好きな相手』の3人が織り成す純真な恋愛劇に既視感と懐かしさを覚えるファンは多い(主に私)。
aikoが語る”あたし”はそのほとんどが奥ゆかしく、激しく自己主張をしないタイプの少女であるが、『アスパラ』の”あたし”もまさしくこのタイプである。
”あたし”は”あなた”に密かに恋をし、どうにか”あたし”の存在に気づいてもらおうと限りなく控えめなアピールをするが、”あたし”の想いは”あなた”に届かない。他のアピールの仕方を知らない”あたし”は頑なに控えめなアピールを続けるが、そうこうしている間に、”あなた”は”あの子”に気持ちを伝えてしまい、”あなた”と”あの子”は笑い合いながら廊下を走り去ってしまう。そして”あたし”は「認めるしかない」と笑うのだった。
好きなひとに好きなひとがいて、自分の想いを伝える前に二人は遠くに行ってしまう。学生時代に経験したことのある話だ。
…と思うが、しかし、この”あたし”の奥ゆかしさは、実は並のものではない。行動力がなかっただけの情けない過去の私と比較するのもおこがましいほど、”あたし”は奥ゆかしいのだ。
その奥ゆかしさは出だしのこの一節に集約されている。
あの子の前を上手に通る癖 覚えたのは
もうずいぶん前のこと 長いなぁ
”あたし”は、”あなた”がいつも目で追っている”あの子”の前を通ることで、 ”あなた”に気づいてもらおうとしている。しかも、かなり前から。
これだけでもものすごく奥ゆかしいが、 ”あたし”の奥ゆかしさの真髄は
『上手に』
この部分にある。
ただ、”あの子”の前を通るのではなく、『上手に』通るのだ。
『上手に』とは、”あなた”に不自然に思われないこと。”あの子”を見てる”あなた”に、「なんだあいつ。いつも”あの子”の前にいるな」と思われないことだ。
すなわち、”あなた”の視界には入っているが、意識されないように風景の一部と化す、ということである。
すごくないですか?これ。
”あなた”に”あたし”のことを知ってもらいたいはずなのに、”あたし”が採用したのは、”あなた”の意識から完全に”あたし”の存在を消すという戦術。
奥ゆかしいにも程がある。
それと、そう。この戦術は意図してやっているのではなく、すでに『癖』として体に染み付いている。”あの子”の存在を認識すると、”あなた”の視線があることを確認する前に、反射的に風景の一部となって”あの子”の前を通るのだ。もはや達人の域である。
”あなた”のためにここまで技を極められるのなら、もっと別の方向にエネルギーを捧げた方が効果的ではと思うが、しかし、これが”あたし”にできる精一杯の、最後の賭けなのだろう。
”あの子”の近くでわざと大きい声を出したり、派手な動きをすることはできない。
ましてや、”あなた”に話しかけることはできないし、想いを伝えることなど到底できない。
だからせめて、”あたし”を”あなた”の視界に入れてほしい。そうしていれば、もし万が一、なにかとんでもない奇跡が起きて、”あなた”が”あたし”の存在に気づいてくれるかもしれないから。
冒頭で「『アスパラ』の”あたし”もまさしくこのタイプ」と書いたが、『アスパラ』の”あたし”は他の楽曲の”あたし”とは桁違いの奥ゆかしさかもしれない。
おーいお茶の新俳句大賞がとても興味深かった話
寒い日が続きますね。
私の職場には屋内に飲み物の自動販売機がなく、しかもなぜか年中つめた~いが充実している謎ラインナップなので、自然、各自が給湯室にアメニティグッズを集結させ、あったか~い飲み物を作る流れになります。
私は緑茶が好きで毎日飲むのですが、今日、ストックがなくなっていることに気づきました。一大事です。白湯でごまかすか、外に出て自動販売機でつめた~い緑茶を買うか二つに一つ。決断を迷って給湯室をウロウロしていたところ、素晴らしいものを見つけました。
そう。大抵の給湯室に存在している、持ち主不明だけど捨てるのはもったいないアメニティグッズが詰め込まれた例の『ご自由にお使いください』ボックス。
これを漁ってみたところ、見事『おーいお茶』のティーバッグが2つ出てきたのです。
『おーいお茶』といえば、そのパッケージに掲載されている新俳句大賞が有名です。私はこれが割と好きで、ペットボトルだろうがティーバッグだろうが必ず読んでしまいます。今回発掘した『おーいお茶』にも、ご多分に漏れず新俳句大賞が載っていました。
なかなか考えさせられたので、紹介します。
兄ちゃんに 負けたくないので おかわりする
帰省した きれいな姉に ちょっと不満
上は、福島県の11歳少年の作品。下は、秋田県の12歳少女の作品。
この二つの句の共通点は、
- 年上の同性きょうだいに対する軽微なコンプレックスを題材にしている
- 字余りがある
という2点です。
11歳少年の句は、真ん中だけでなく後ろにも字余りがあり、何事にも縛られない身軽さを感じます。「食べる量で兄に対抗する」という内容も、実に少年的です。
対して12歳少女の句は、始め、真ん中が、五、七、とルール通りなのに、最後はなぜか六です。都会に出て綺麗になって帰ってきた姉に対して憧れと自尊心の傷つきを覚えたのなら、ここは ちょっと不満 ではなく 嫉妬する とした方が12歳の少女が抱く感情として非常に生々しくて良いと思うのですが、なぜそうしなかったのでしょうか。
11歳少年と12歳少女は、たった1歳違いです。
上記の二句から、1年間の人生経験の差以上の、少年と少女の間の精神的成長度の大きな隔たりを感じます。
少年は憧れの兄に対して食べる量で対抗しようとするのに対して、少女は憧れの姉との差に愕然とする。
少年は「兄に勝てる」と思っているため、自尊心の傷つきがなく、自身の弁解をする必要を感じていないのに対して、少女は「姉に勝てない」と悟ったことで、自尊心が傷つき、それを敢えて『嫉妬』ではなく『ちょっと不満』と表現することで弁解している。
12歳少女が敢えて最後を五ではなく六にした理由は、これだと思います。
同じような題材で同じような年齢のひとが作成した、同じような表面上の特徴を持った句でも、そこに秘めた感情レベルは全く異なります。少女の精神的成長度は少年のそれに比べて圧倒的に高いことが、二句を比較することで想像できます。
というようなことを考えているうちに、休憩時間が終わってしまいました。
ティーバッグ一つで休憩時間を充実させる『おーいお茶』の新俳句大賞、なかなかやりよります。
aiko歌詞考察②-『夏が帰る』は詞とメロディーの共闘を楽しむ曲である-
先日の大雪の日に『鏡』を聞いてむせび泣いて以来、十年ぶりのaikoブームが到来している。
主に『BABY』というアルバムを貪るように聞いているのだが、今回はその『BABY』に収録されている『夏が帰る』という曲について書く。
『夏が帰る』の“君”に対する感情の表現は『鏡』の“BABY”に対するそれよりも断片的であり、ストーリー性がない分、場面をイメージしにくい。しかし、時折見せる“君”への絶対の執着心は“BABY”へのものと同等か、もしくはそれ以上に強い。聴き込む程に“君”のことを想っている主人公の気持ちに溶け込んでいく。
…という感想は、活字になった歌詞を読んだあと曲を聴いたときに改めて感じたことで、それ以前に曲を聴いていたときの感想は
「歌詞が全然入って来ねぇな」だった。
というのも、何度聴いてもサビ部分のポンポンポンポンポンポンポンポンポンポンポンポンポンポロポロポロポンポンポンポンポンポンポンポン(略)というキャッチー過ぎるメロディーだけを耳が拾おうとし、歌詞を全く無視してしまうのだ。
歌詞が軽いからではない。
後悔する位なら苦しくても 永遠に君を好きでいたいの
という、かなり強烈なフレーズをぶつけている。
にも関わらず、耳はポンポンだけに集中してしまう。完全にポンポンが“苦しくても君を好きでいたい”という激情を食ってしまっているのだ。
メロディーラインにきれいに乗った歌詞が聞き手の元にすっと届くような感じではなく、強烈な詞と強烈な曲が激しくぶつかり、揉みくちゃになりながら聞き手のところに転がり込んでくる印象を受ける。
“苦しくても君を好きでいたい”とポンポンのつかみ合いの喧嘩を見ている野次馬の気分だ。
この曲は作詞作曲歌唱すべてaikoであり、このようなバトルスタイルにしたのもaiko自身である。
『BABY』に収録されている他の曲は、作詞aikoと作曲aikoが仲良く一曲を完成させているか、作曲aikoが作詞aikoのサポートに徹することで曲を成しているかどちらかだ。
双方が激しく衝突している曲は『夏が帰る』以外にはない。
aikoはなぜこのようなバトルスタイルにしたのだろうか。
そのヒントは
雨よ 止んで 止んで お願い
という歌詞にある。
「お願い!雨よ止んで!お願いだから!」という、“苦しくても君を好きでいたい”と思う一途な主人公が放つ最後の願いである。
実はこの部分で、aikoは一瞬、溜めを作る。その溜めの間、曲は停止する。
雨よ 止んで 止んで (無音)お願い
である。
ついさっきまで散々主張し合っていた詞と曲は、ここで急に団結する。
雨よ 止んで 止んで
でがっちり握手を交わし、
お願い
で同じ方向に向けてすべてのちからを放出するのだ。
aikoが3つあるサビのすべてで詞と曲を戦わせたのは、最後の『共闘』を劇的にするための演出だったのではないだろうか。
そう考えると、歌詞の聞き取りを邪魔するほど主張していたあのポンポンポンポンポンポンポンポンポンポンポンポンポンポロポロポロは雨音なんじゃないかと思えてきた。
雨よ 止んで 止んで お願い
により強い光を当てるために、雨が激しく降っている様をポンポンで表現したのではないだろうか。
こんな調子で、私は毎日『BABY』を繰り返し聴いて過ごしている。
窓から外を見ると、また雪が降り始めたようだ。
雪が降る様を、aikoならどのように表現するのだろうか。
aiko歌詞考察①-『鏡』に登場する”BABY”への愛に胸を打たれる-
大雪の深夜。通りに面したこのアパートに、今日は車が走る音も響かない。
しばらく静寂を楽しんだあと、何か音楽を聴こうと思い立ち、iPodを手に取った。
ランダム再生したiPodは、2000以上ある曲の中からaikoの『鏡』を選んだ。確か『BABY』という古いアルバムに収録されている曲だ。
いつiPodに入れたのか定かでないが、なんとなくメロディラインは知っている。が、歌詞をまともに聞いたのはこれが初めてだった。
どうやら、娘がなんらかの事情で家を出て行く日の様子を、父親の視点で歌ったもののようだ。男女の恋愛を歌うaikoにしては異色である。
出だしはこう。
OK 君をガン見さ 今日は仕方がないだろ
キミが家を出て行くから
BABY 愛しているぜ キミは俺の鏡さ
ドアを開けて出て行くまで
大切に育てた娘が、今日、家を出て行く。ずいぶん前から分かっていたことなのに、いざその日になると寂しさが込み上げてきてどうしようもない。父は「こんなんじゃいけない」と思い、娘の幸せな未来に目を向けようとするが、娘がする何気ない仕種の一つひとつが色んな思い出の扉を開けてしまい、余計に寂しさを助長する。
そんな父の複雑な感情が
OK 君をガン見さ 今日は仕方がないだろ
キミが家を出て行くから
という二行から察せられる。
そして
BABY 愛しているぜ キミは俺の鏡さ
ドアを開けて出て行くまで
『BABY』という呼びかけ、『愛しているぜ』という口調から、この父には少しロッケンローな気質がある。娘のことを『俺の鏡』とまで言ってしまうのもその証拠だ。
なお、『俺たちの』ではなく『俺の』と言っていることから、父が娘に想いを馳せるとき、娘を産んだ女性の存在は想起されないことがわかる。『鏡』という言葉も、単に顔や仕種が似ているというのではなく、長い間、互いに支え合いながら二人だけでやってきたことによる強い一体感を表しているように思う。
続く歌詞が
見栄を張って買った凄く高いライダース
咳が止まらない夜も 必死になって働いた
であることからも、『男手ひとつで娘を育て上げたロッケンローなシングルファーザー』という人物像がイメージされる。
娘が家庭の金銭面や父の体調を心配するたびに「そんなこと気にすんな。お前がやりたいようにやりゃいんだよ」と強がってきたのだろう。
そして『俺の鏡』から感じたロッケンローな印象は
君をこの目に焼き付ける
と
明日この部屋は息をしなくなる
という歌詞によりガッチリ補強される。
この二つ、ものすごく重い。
軽快な曲調から、娘が出て行く理由は、おそらく結婚とか就職とかそんなポジティブなもののような気がする。なのに父は、今生の別れのごとく『今日の姿を目に焼き付ける』と宣言し、『娘がいない家なんて死んでいるのと同じだ』と自分の未来に絶望的な感情を抱いている。
このように、この父は尋常じゃないくらい娘を愛しており、娘の存在によって自らのアイデンティを定義しているきらいがある。曲の後半には
BABY 愛しているぜ 全部捨てても平気さ
こんな俺はどうかしてる
という歌詞があり、どうかしていることを認識しつつも、「でも仕方ないだろ!」と心の中で叫ぶのである。
私が人知れず、深夜の窓際で泣いていたのは、上記のような父と娘のある日の様子を具体的にイメージしながら最後まで聴きたあと、ふと
父は娘に「愛している」と言っていない
ということに思い至り、父と娘がそれぞれ抱く想いに痛いほど共感したからだ。
娘が家を出て行く日の、おそらく朝の時間。二人でいるその最後のひとときに、父は「愛している」という思いをはち切れんばかりに詰め込んでいる。なのに、娘に「愛している」と告げてはいない。どうしようもなく寂しいのに、「寂しい」とは言っていない。
なぜか。口に出せば確実に娘の負担になるからだ。これまでだって、娘は父を散々心配してきた。父が娘のことを一番に考えてきたように、娘も父のことを一番に考えてきた。今回家を出て行くのだって、迷いに迷った末の決断だろう。
娘が父にこのことを話したとき、父が「そんなこと気にすんな。お前がやりたいようにやりゃいんだよ」と言った瞬間、父と娘は腹を決めたのだ。
娘を手放すことを。
父の元を離れることを。
父にとってbabyだった娘は、いつの間にかBABYになっていた。
いつものように明るく振る舞う娘をガン見し、様々な想いと思い出に心をかき乱されながら、父は最後にこう思う。
BABY 愛しているぜ だけどもうキリがないな
ドアを開けて出て行くまで
【台北】台湾を乗り尽くす!交通機関の利用方法と注意点まとめ(台北MRT編)
台湾の電車の乗り方やバスの乗り方はとてもユニークです。
先日、初めて台湾に行ったのですが、
「自動改札あるけど、どこに切符通せばいいの?」とか
「バスは前乗り後ろ降り?料金はいつ払うの?」とか
ところどころ迷ってしまいました。(実際、台北郊外の駅に行くはずが台中の方まで行ってしまい、半日潰してしまいました…。
電車の乗り方(台北MRT編)
台北市内を拠点とする場合、台北MRT(地下鉄)での移動が最も便利です。
主な路線は5つしかなく、また、わかりやすく色分けされているので迷うことがありません。
乗り場の情報もすべてこの色で示されています。
さらに、路線が交わっていない駅では、駅の構内が所属路線の色になっています。
淡水信義線劍譚駅は赤色が基調
また、MRTは運賃が激安です。2駅くらいなら20元(日本円で70円程度(2016.12.28時点))で行けます。
台湾にも日本のSuicaやICCOCAのようなICカードがあります。その名も『悠遊カード』。これがあれば電車もバスも楽チン。
駅の窓口や券売機、コンビニなどで購入できるのだそうですが、私が訪台したときにはなんと売り切れでした。
(窓口で「悠遊…」としか言っていないのに、かなり食い気味に「悠遊カードSOLDOUT!」と言われました)
「え、そんなことあるの!?」と思いましたが、ないものは仕方ないので、その都度切符を買うことにしました。
切符の買い方
切符の買い方は以下の通りです。
①『日本語』と書かれた部分にタッチする
②切符購入ボタンにタッチする
↓画面が切り替わる
③切符1枚分の運賃をタッチする
④切符の枚数をタッチする
⑤合計金額を確認する
⑥⑤に表示された金額を投入する
⑦切符(トークン)が出てくる
⑧数秒後にお釣りが出てくる(※時間差があるので、取り忘れにご注意ください)
ちなみに、台湾の切符は紙ではなく、プラスチックのコインです。トークンと呼ばれています。
さて。
切符(トークン)を購入したら改札を通りましょう。
このトークンですが、ICチップが内蔵されており、改札通過時にはSuicaなどのICカードと同様にタッチすればOKです。
駅構内に入ってしまうと、日本の地下鉄と特に変わりありません。
レスカレータor階段でプラットフォーム(『月台』と表記されています)に行き、やってきた電車に乗るだけです。
車内でもきちんとアナウンスしてくれますし、現在地点がどこで次の駅は何かも電光パネルで知らせてくれます。
目的の駅に着いたら、改札を抜けましょう。
改札を出る時には、日本の切符と同様、切符(トークン)を投入口に入れます。
以上が台北MRTの乗り方です。
国鉄、バス、タクシーの乗り方と注意点については別途紹介します。
(余談ですが、文湖線の車両は少し特徴的です。大安駅などで乗り換える際に見てもらうと面白いと思います。)
【台北動物園】パンダだけじゃない!台湾の動物たちに癒される
台湾と言えば、ノスタルジックな町並みが残る『九份』や、世界有数の高層建築『台北101』、至高の宝物を今に伝える『故宮博物館』などが有名ですが、どれも言わずと知れた観光地なだけに、連日たくさんの人が訪れます。
どんなにきっちりスケジュールを組んでいても、ずっと人混みのなかにいれば、2日目の午後には「もう今日はホテルに帰ってゆっくりしようかな…」という気分になりかねません。
せっかく旅行にきたのに、ホテルに引きこもっていてはもったいないですよね。
ここはひとつ、引き続き台湾を満喫しながら、心と体を回復しましょう。
ということで、台北の癒しの穴場、台北動物園を紹介します。
台北動物園へMRTでGo!
台北市街からだと、台北MRT(地下鉄)での移動が楽チンです。
台北の地下鉄は日本と違ってめちゃくちゃ簡素にできているので、黄土色の文湖線に乗って終点の『動物園駅』まで座っていれば到着します。
動物園駅の改札を出て出口1のエレベータを降りると、そのまままっすぐ動物園の雰囲気がする方に歩きます。
サザエさんのような軽快なステップを踏むクマさんが出迎えてくれるので、記念撮影をしておきましょう。
クマさんに別れを告げ、30mほど進むと台北動物園に到着です。
まずはチケットを買います。
人が並んでいて、アクリル板の向こうにおばちゃんが座っているチケット売り場然としたところがあるので(写真撮ってなかった…)、そこへ向かいます。
めっちゃわかりやすいところに入場料について書かれているのですが、ここであえて「多少錢(ドゥオシャオチエン)?」(いくらですか?)と言ってみることをおすすめします。
返ってくる答えがわかっているので、おお!しゃべれたし聞き取れた!という、中国語ができたっぽい気分を味わえます。
予想に反して鋭い中国語でブワーっと返される可能性が2%程度ありますが、大丈夫です。
そのときはおばちゃんの言うことを華麗に聞き流し、指で欲しいチケット枚数を示しながら日本語で「大人○枚お願いします」と言いながらお金を差し出せばOKです。
おばちゃんが必要な枚数のチケットとお釣りをきっちり渡してくれるので安心してください。
チケットを手に入れると否が応にも気持ちが高ぶるものです。軽くスキップしながら入場ゲートへ向かいましょう。
チケット売り場の左手側に、これまたいかにもな入場ゲート然としているところがあるので(また写真撮ってないよ…)、係員のお姉さんorお兄さんにさきほど購入したチケットを渡します。
その際に、チケット左端の入場証明のような部分を結構雑にかつ無表情でモガれるのですが、元気よく「謝謝(シエシエ)!」(ありがとう!)と言いましょう。おそらく何も言ってくれませんが、こちらのモチベーションはひとまず保たれます。
さて。
無事入場が済むと、あれが欲しくなります。
あれ。そう、マップです。
日本の動物園では、チケット購入時に渡されるか、入場ゲート付近に専用のスペースがあるのですが、台北動物園にはありません。
どこにあるのかというと、ここにあります。
入ってすぐ右側にあるインフォメーションセンターで「日本語のマップください」というと、笑顔で渡してくれます。
私が行ったときは日本語のマップが並べられていなくて、「あれ…日本語のやつないのかな」とつぶやいていたら、後ろから「日本語!こっち!こっちあるよ!」と声をかけてくれ、「ごゆっくりどうぞ!」的なことも言ってくれました。
入場ゲートの係員とのホスピタリティの差に愕然としながらマップを受け取ります。
マップで全体像を確認しましょう。台北動物園は、
1.台湾動物区
2.アジア熱帯雨林区
3.砂漠動物区
4.オーストラリア動物区
5.アフリカ動物区
6.温帯動物区
7.鳥園
8.子ども動物区
9.その他(パンダ館、コアラ館など)
に分かれています。
すべてではありませんが、各エリアにいる動物のシルエットと名前が記載されています。
台湾動物区以外の動物は日本の動物園でも余裕で見られるので、台湾固有種がいる台湾動物区を目指します。
人混みで擦り切れた心を彼らに癒してもらいましょう。
初めに登場する癒しキャラはこの子です。
【タイワンキョン】
何かに興味を惹かれている様子。お尻がかわいい。
食事中。葉っぱだけを食べるようです。
短い足でちょこちょこ歩きます。
《解説》
いや、めっちゃカワイイ。撮影技術が拙く可愛さがいまいち伝わらないのが本当に申し訳ないんですが、生で見るとめっちゃ小さくてカワイイんですよこの子。
キョンというのは小型のシカの一種で、大人になっても体長70cmくらいにしかならないそうです。大きくなっても小さいままというのは、癒しポイントが非常に高いです。
続いてはこの子。
【タイワンイノシシ】
身じろぎ一つせず、ただ遠くを見つめている。視線の先に何があるのだろうか。
たまにこちらを見てくる。
《解説》
うーん、なんとも哀愁があります。
遠くを見つめていたかと思うと、ときおりこちらに視線を投げかけてきます。なにか伝えたいことがあるのかなと思い、しばらくこの子と見つめ合ったり、この子が見つける先に視線を向けたりしていました。間を流れるゆったりした時間にとても癒されました。
どんどん行きます。
【ウンピョウ】
一瞬だけ視線をくれました。イケメンです。
後ろ姿もイケてる。
《解説》
この子は本当にカワイカッコ良かったです。ネコの人懐っこさとトラの泰然さを兼ね揃えているばかりか、成長しても体長70cm程度というネコ科最強の癒し要員です。
ウンピョウは別名をタイワントラというのですが、台湾では絶滅してしまったそうです。人間による乱獲が原因ですが、なんでも牙を漢方の材料にしていたとか。サイの角にしてもそうですが、そんなに漢方いるか?と思います。絶滅に追い込むほどの量の漢方を一体どうやって消費していたのでしょう。なににしても、悲しいことです。
さらに。
【タイワンジカ】
展示場にいなかったので、写真がありません(すいません... )
《解説》
この日は天候が優れなかったので、タイワンジカは獣舎の中でした。
というのも、野生のタイワンジカは絶滅しており、動物園で辛うじてその姿を見ることができるという貴重な存在であるため、大事に扱われているようです。
絶滅の原因は乱獲です。夏毛の白い斑点が梅の花が咲いているように見え、その模様が大変美しいために乱獲されたそうです。
ここ台北動物園で人間の手によって生まれ、大切に育てられているようですが、ウンピョウに続き、人間のエゴを目の当たりにして少しショックを受けました。
タイワンジカの他にも、タイワンカモシカ、ユーラシアカワウソ等が飼育されているのですが、この日はあいにくの天候で、展示場に出ていない動物が多かったです。
ここの動物園ではパンダやコアラなども見ることができるので、時間と体力に余裕があるときには是非見ていただきたいです。
というわけで、以上、人混みにやられたら是非ここへ!台湾の動物たちに癒される台北動物園に行こう!でした。
■台北動物園
【アクセス】台北MRT台北駅から淡水信義線で大安へ。
大安で文湖線に乗り換え動物園駅で下車。
【営業時間】9:00~17:00(入園は16:00まで)
【入場料】18歳以上:60元、18歳以下:30元(悠遊カードでの支払可)
ハリネズミ、ハリモグラに続く生物を予測してみた
当ブログでは、なぜかハリネズミを多く題材にしています。
飼っているわけではありませんし、ブログを始める前には大して興味がありませんでした。それがいまや、起きているときの75%くらいはハリネズミのことを考えています。「ハリネズミってこれくらいかな」とか思いながらマウスをくりくりしてますし、「もしハリネズミが枕元にいたら針の数を数えるうちに寝られるかな」と思いながら寝付きの悪い夜を過ごしています。
私がこれほどまでにハリネズミに心惹かれるのは、『この冬、手に乗せて愛でたい動物5選』を書く過程でハリネズミについて調べていたときに衝撃の事実を知ってしまったからです。
その衝撃の事実とは。
実は、ハリネズミはネズミではないということです。
では何の仲間なのかというと、なんとモグラの仲間なんですよ。
どうです?衝撃じゃありません?え、別に衝撃じゃない?いやいや衝撃なんですよこれが!!
なぜかというと、ハリネズミと同じく背中に針がある動物が他にもいるのですが、そいつの名がハリモグラなんです。
ハリネズミが実はモグラの仲間というだけで衝撃なのに、なんの因果か、ハリモグラなる生物がいるのです。
さらに驚くことに、このハリモグラ、実はモグラではなく、カモノハシの仲間なのです。
もう訳が分かりません。『ハリネズミがモグラ』というボケの上に『ハリモグラがいる』というボケを乗せ、さらには『ハリモグラはカモノハシ』というボケを乗せてくるのです。
もはやどこからツッコんで良いのか検討がつきません。
地球の生命はその誕生から約40億年かけて、このような三重のボケを創り上げました。一つのボケを生み出すのに約13億年。気の遠くなるような時間です。これほどの膨大な時間をかけて生み出したボケ、さぞ自信があるのでしょう。神様のドヤ顔が目に浮かびます。
さて。
ハリモネズミはモグラ⇒ハリモグラはカモノハシ
この流れ、ここで終わると思いますか?
自分が創り出した三重のボケに対して盛大に受けている生物(主に私)がいるのに、ここでボケるのを止めるでしょうか。神様はきっとこのあとに続くボケを用意しているはずです。
神様のボケを予測して、数十億年先の未来を見てみましょう。
…
かつてオーストラリアと呼ばれていた大陸で、背中が針で覆われた生物が発見されました。ハリモグラが絶滅して以来、実に10億年ぶりに誕生した針系の生物です。学者は、その特徴的な見た目から『ハリカモノハシ』と名づけました。鳥の嘴のように平らで前方に突き出た口を持っており、手には水かきのようなものが見受けられたからです。
しかし、研究が進むにつれ、この『ハリカモノハシ』はカモノハシではなく、コアラの仲間だということがわかりました。『ハリカモノハシ』はユーカリの葉を好んで食べ、お腹の袋の中で子育てし、夜になると木に登って眠るのです。
学会は一時騒然となりました。議論を重ねた末、『ハリカモノハシ』という名は実態に則していないということで『ハリコアラ』への改名案が提案されるに至りました。
しかし、この提案はすぐに取り下げられます。なぜなら、かつてユーラシアと呼ばれていた水のない枯れた大陸で、背中に針のあるコアラに似た生物が発見されたからです。
『ハリカモノハシ』の改名について熱い議論を交わしていた学者たちの興味は、一瞬のうちにこの“背中に針のあるコアラに似た生物”に移りました。第一発見者は勢いで『ハリコアラ』と名付けようとしましたが、学会の重鎮は落ち着いた声で諭しました。「同じ誤ちを繰り返すな。真実を見極めよ」と。
こうしてひとまず命名は保留とし、“背中に針のあるコアラに似た生物”の研究に取り掛かりました。ほどなく、コアラとは異なる系統の生物であることがわかりましたが、数年に渡る研究の末、結局、『ハリコアラ』と命名されることとなったのです。
というのも、そのとき地球上に生息するどの生物とも一致した特徴が見つからなかったからです。見た目はコアラに似ているのですが、その生態はコアラとは全く異なります。数週間水を飲まなくても生命を維持でき、本当に少ない食料で長い距離を歩くことができるのです。結局この生物は分類不能のまま、数億年後に絶滅してしまいました。
それから約30億年後。かつてユーラシアと呼ばれていた緑豊かな土地で、生物の化石が発見されました。この頃になると、人類はアカシックレコードにアクセスできるようになっています。アカシックレコードでこの化石を検索したところ、『ハリコアラ』と呼ばれていた生物であることがわかりました。そしてその化石から、背中にコブのようなものが2つあった形跡が発見されました。検索結果から、『ハリコアラ』という名前の他に、生前は背中が針で覆われていたこと、ラクダの系統であることがわかりました。
この時代の規則に従い、化石を発見した人物はこの化石の生物を改めて『ハリコブラクダ』と名づけました。
と、ここまでが神様がいま考えているボケだと予想しています。以上です。